小樽の監視行動に参加して 下川 麻衣

10月13日早朝7時頃小樽港に米キティホークが着岸した。私が築港駅から港へ向かう途中で既にその灰色の巨体は私の視線を釘付けにした。サンディエゴで見た以来久々に見た軍艦。それも日本で、とは信じられない。

7時からは樽労連主催の抗議集会に参加したが、非常に厳しい警戒体制の下であったためか、人数も想像以上に少なくがっかりしてしまった。私が釧路から駆けつけるほどキティホーク入港は大イベントであったのに、地元はあまり重大と捉えられていないのには少々憤りを感じずにはいられなかった。

集会の間は各団体からの話があったが、それよりも私はひたすら怪しい軍艦に目を放せなかった。軍人が甲板から手を振っていたり、荷降ろしの準備をしたり、こちらに双眼鏡を向けていたりするのをただじっと見ていた。あまり面白い風景ではなかったが、どうせなら見ておこうと写真を撮りつつ見入っていた。 その姿に周りは私を記者だと誤解していた者もいた。

私たちが集まっていた付近に看板があった。それには旗やはちまき、腕章など、そして拡声器のようなものの持ち込みを禁じるというもので、小樽市と小樽の港湾部の連名で立てられていた。私は日本が米国の植民地と同様な位置にあることに恐怖を感じた。なぜ主権国家であるはずの日本がこんな屈辱を受けねばならないのか。表現の自由が憲法に定められている国でそれを犯すことを国家が強制している。何とも情けない状況である。

集会の最後にハンドマイクでアピールをした。中年男性が日本語と英語を織り混ぜてしたが、英語もあまり良くなかったため、通じていなかった気がする。集会終了後はほとんどが(団体で集約されていたためらしく)即去っていった。残念だった。民青同盟のグループはそんな中ハンドマイクを手に片言の英語で訴えていた。若い人の声には米軍兵士は割と柔軟な姿勢をみせることを彼らに伝えると喜んでいるようだった。

我々の集会が終わりいまらくして、離れた所から連合系の抗議集会の声が響いてきた。がなるような訴えに初めは右翼か革マルかと思った。彼らは米軍に直接訴えるよりも、大通りでのバフオーマンスを選んだようだ。

しばらく港で監視していると、続々と軍人が下船し、街に繰り出していった。水兵の制服に観光客は笑顔で歓迎し、彼らは我が物顔で好き好きな方向へ足をのばしていった。マイカル小樽も軍人だらけで、異様な光景だった。すでに「お迎え」に女性も多数訪れ、埠頭でも、街中でも、まるで拾ってくださいと言わんばかりで軍人達も嬉しそうに目を細めていた。女としてこの上なく恥ずかしい。

夜の集会ではザーザーの雨降りで、寒さもあり、かなり体力を消耗した。デモ行進では私は友人と話しながら楽しくシュプレヒコールを行った。途中、教師である知人が「なにやってるのー?」と生徒に話し掛けられる一幕があり、彼は「今アメリカの兵隊が街に出てるから、早く家に帰りなさい」と優しく言った。 しかし、生徒は「えー、何で?危険じゃないじゃん」と。すると彼は「本当に危ないんだから帰りなさい!」と諭した。教師の生徒への愛を感じた。

夜の抗議集会も再びデモ終了後参加者はすぐ散っていった。解散した場所には多数の水兵がいたにも関わらず、興味さえ示さない。とても「隊員と話すので近くにいませんか?」という雰囲気ではなく、単独で話し掛けるわけにもいかず、私はその日の隊員との対話は諦めていた。

対話しない代わりに、私はさりげなく3人の水兵の横で彼らの会話を聞いていた。私が会話を理解しているとも知らず、彼らは我々の行動について意見を述べ合っていた。「帰れ帰れ、って、俺達だって帰りたいんだよ」「そうだな、俺達は金さえもらえば帰るって」「帰るから金くれよ」私は、ひとこと言いたくてうずうずしていたが、我慢していた。すると一人がこう言った。「(抗議行動参加者の方を見ながら)これならサンディエゴのハーバーの方が良かったよな」私は一秒だけ躊躇して、それから話し掛けた。

「サンディエゴつて聞こえたけど、あなたたち住んでたことあるの?」すると彼等は私が英語を理解していたことと話せることに驚き、言葉を発するのに少し間があった。こうして私とこの若い水兵3人との会話が小樽の商店街の一角で始まった。

彼らはブライアン、マイケル、チャック(何れも仮名)といい、私よりも確実に若い少年たちだった。彼らは私と会話を持ってしばらくして上司や同僚の目を気にするようになったが、問題ないだろうと自分たちで納得し合い会話を続行した。彼らは非常に正直で、自分のことや軍の内部のことを話すときにもあっけらかんとしていた。まるで第三者のことについて話すかのように。

マイケルは心から自分の仕事が好きで、軍は辞めたいと思わないと笑顔で言ったが、ブライアンとチャックは彼を「気が狂ってるんじゃないか?!」と非難し、自分たちは今すぐにでも除隊したいのだと繰り返し私に訴えた。入隊して半年のアジア系の顔つきをしたブライアンは、2004年の任期満了が待てないと足踏みをし、唇を噛む仕草をした。一方チャックは2年間を横須賀で過ごし、2002年に任期を終える。「お気の毒に」と私が思わず口にすると、「本当さ」と肩をおとしていた。

私は他の水兵が周りで私たちの会話に耳を傾けていたことを承知の上で、敢
えてやんわりと除隊を促してみることにした。彼らはやはり可哀想な環境で生活をしており、除隊すると暮らしていけないという。「金さえあれば今、この瞬間に辞めてるさ」と言い放ったブライアンを責めることは私にはできなかった。チャックはその言葉にただ肯き、マイケルは同意はしなかったものの、ブライアンの主張を邪魔することなく黙ってきいていた。知り合ったばかりとはいえ、私は友人が悩んでいるかのように、彼らの現在と未来に不安を抱かざるを得なかった。

3人の来道は今回が初で、もっと観光がしたいといった。私が「その格好じゃあねぇ」と冗談交じりに言うと、彼らは「そうなんだよ、制服だからあまり出歩く気になれないんだ。皆、米兵だって嫌がるんだ」と捲くし立てた。報道されているような歓迎ムードは本当に一部だけのものらしい。その翌日の私服での行動が待ち遠しいという。

ブライアンはアイヌ文化にずっと興味を持っていて、アイヌの村に行きたいという。私は上川の二風谷のことかと想像し、今回の「訪問」で行ける距離ではないことを説明した。すると彼は非常に残念がったが、私は「任期を終えてからゆっくり自分の時間で来たら?」と宥めた。あくまでも「軍人は観光客ではない」という我々のスタンスを明確にしたかった。

3人は我々が何故こうした抗議行動をしているのか、充分理解しているという。しかし、指示に従うしかないということを解って欲しいんだと身を乗り出して口々に言った。米兵が起こした事件は「不運」であった、しかし全ての米国人が悪ではない、と言った。もうその言い訳は聞き飽きたよ、と私は言いたかった。そんな理屈ひとつで片付けようなんて、米兵の起こす事件の被害者達は納得するわけがない。

会話を弾ませていた我々に、小樽潮陵高校の放送部員数名が話し掛けてきた。彼らは黙々と情報収集に一日費やした事を知人から聞いていた私は、彼らが取材を試みているとすぐに気付いた。しかし、米兵は彼らが普通の会話をしたいのだと思い込み、ベスト・スマイルで挨拶し始めていた。私が「取材させてって言ってるよ」と通訳すると突然それぞれが懸命に「許されてないんだよ」と通訳するよう促した。私は何度も「彼らは高校生で、名前とか言わなくてもいいと思うよ」と説得してみたが、「罰せられるんだ」と。彼らの軍での立場を保つため、私はしぶしぶ高校生に諦めるようお願いした。彼らのような若者をがっかりさせたくなかったが、仕方なかった。

「せめて写真でも」と高校生は言ったが、「無断で自分達の顔が報道に使われるのも罰せられるんだ」とこれも残念そうに言った。 私は「じゃあ、個人的な写真を撮りましょう」と言って、高校生を指した。すると、チャックとマイケルは割り切ってOKした。しかし、ブライアンがだめだ、と繰り返した。あいつが怒る、こいつが怒る、と上司の実名を出して言ってきた。結局彼らとではなく私となら撮っていいと言うので、高校生には申し訳なかったが、そうさせてもらった。

3人との会話を終え、友人と歓談した後、札幌の宿へ向かうため築港駅へ戻った。私は駅に足を踏みいれ、一気に寒気がした。時刻は23時をまわっていたのだが、座る所が無いほどに人が溢れている。しかも私達と数名を除けば皆制服姿の水兵達。戦後の日本を見ているようで、恐ろしかった。私は水兵の言動に細心の注意を配った。出会った女と別れを借しむ光景も見られたが、大多数は札幌に外出していた友人達の帰りを待っているようだった。私は帰りのJRの車中で友人が無事帰宅できたか心底心配だった。

翌日、私は安井裁判のつどいに参加する前後に札幌の町を歩いた。どこへ行っても米兵、米兵で、まるで基地の中にいるようで具合が悪くなりそうだった。SPの刺繍をした制服を着た者を数名見掛けたが、他は全て私服だったようだが、長年見てきた米兵だけに、私には外国人が軍人か観光客かは一目でわかった。

「彼女」なのか「現地妻」なのかよくわからないが、知り合って間もないような女の子が多数寄り添う姿が日中も見受けられて、私はショックだった。私がタワー・レコードでCDを真剣にあさっていたときにも黒人の20才くらいの5・6人の集団が私をどうやって「おとそうか」話していた。私がさりげなくかわして場所を移ってもついてくる。徐々に腹立たしくなってきた私は「いい加減にしてよ! !」と言いたい気持ちを押さえて店を出る事にした。もっと探したいものはあったのだが。

大声で騒いだり、駅の構内でスケボ一をして通行人の邪魔をしたり、卑隈な言葉で人を罵ったり、米兵どうしで喧嘩をしたり、あちこちで若いアメリカの少年達はやりたい放題。報道によれば日本の文化を教えこまれてから各地に送られているというのに、何事か。これを見受ける限り、我々の生活に溶けこもうとしているなど、口ばかりの公約ではなかろうか。

マイケルはキティホークの旗について私に熱く語った。'50年代から引き継いでいるもので、非常に貴重で名誉ある旗なのだという。キティホークは2008年までその旗をはためかせ、その後は他の軍艦に引き継がれる事になっている。旗をいい形にしておくのは彼ら3人の仕事でもあるらしい。「大変だが、誇りに思える仕事だよ」と笑顔を見せる彼らが、私には複雑な思いを抱かせた。どうしても彼らを今のまだあまり汚れていない状態で任期満了を迎えさせたい、と思うと同時に、彼らと徹底的に議論して除隊をすすめたい、とも思った。私は彼らが私にぶつけてくれた本音を殺すことなく、今後の平和運動に生かしていきたいと思う。私の愛する米国と日本が全ての兵器を捨てるために。そして、戦争のない次世紀を迎えるために。


2000年11月